昭和56年4月17日 朝の御理解    入力者松本正宏


 御理解第九十二節 「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 昨日はあのように春の御大祭が盛大にしかも神ながらに奉仕する事が出来て、皆さんも御参拝する事を得て、本当にありがたいことであったと思います。本当に遠隔地からの御参拝。それも合楽でなからなければならないという方達ばかりの御参拝。これは、ここには守り守りの力によって神のひれいが違うのぞとこう仰る。その守り守りの力と言う事はどういう事なのだろう。ね。私は今日ここを頂かせてもろうて、昨日のご大祭の事を思うて本当に神様の間違いの無いまあ、いうなら見事な御采配のもとに昨日のご大祭が奉仕された。それでまあ私に力があるとは思えないけれどもとにかく自分の我を抜いて、いわゆる我無力、神様のおかげ、あなたのおかげを頂かなければ出来ることではなしと、ただ、神様の教えに私なりに忠実に教えを守るだけであって、あのような、ご大祭が奉仕される。してみると、私共が力というのは、もうあなたのおかげを頂くより他に手がなしという思いが強いという事だと思うのです。だから、これは私がこれはこうしなければああしなければならないという、これはこうしなければああしなければならんという自分の思いを捨てて、いうならば我情を捨てて、ね、我情を捨てなければ自分にはああしようこうしようと思うてどうにも出来ない事なんだ。だから結局あなたのおかげを頂くより他にないという思いが強いと言う事が力だなあと言う風に思います。
 ね。昨日も御説教の中にちょっと申しましたように、ね、話を聞いて助かる。昨日私午前中にここでお取次をさせて頂いた、本当におかげというものは、ただ不思議というほかにないというようなお届けがいくらもありました。これなんかはいうなら話を聞いただけで助かったのです。ね。だからそういうおかげからいうならば話を聞いて助かるという事は話を聞いて改まる。話を聞いて分からせてもらう。そしてそれを実験実証させてもらう。ね。だから話を聞いて助かるという助かり方は二通りあると思うのです。話をただ聞いたなりに、聞こえなかった、耳が聞こえるようになったといったような、これは話を聞いただけで助かったわけなんだ。だから話を聞いて助かるだけなんだという話の内容をね、神の一言として頂いていくというそしてそこに精進させてもらう改まらせてもらう、というようなあり方によって話を聞いて心が助かり、話を聞いて受けものが出来、そしてそこに現れるところのおかげ。どこまでも話を聞いて助かるという事は願う氏子におかげを授けと仰せられる、働きであり、ね、あとの話を聞いてはあそうだったかと分からせてもろうて、改まらせてもろうて生活が出切るようになる。これがだから本当の意味においていや、神様が願っておられる話を聞いて助かるのである。どうして話を聞いて助かるのか、それはどこまでも教えの力である。教えに徳があるのである。私は今日はそんな風に思うのです。ですから、その教えに力のある助かる事の出来れる話を聞いていうなら改まった信心生活に入って行く。まあ、ここで言うならば合楽理念のいよいよ実験実証というおかげを頂いていかなければならない。ね。
 自分に力があると思われませんが、力とは、結局自分には何もできないという事を深く強く分からせて頂く事だと今日は悟らせて頂きました。
                                     どうぞ